## page was renamed from 木村泉先生 <> <> 木村先生はワインバーグの著作を多数翻訳された。 それら以外の著書もあるので、そちらを取り上げたい。 まずは [[/プログラム書法(初版)]]、 そして、 [[/莫迦話]] 教育とミニコン関連ということになる。 入出力、かな漢字変換、日本語処理については、 [[/ワープロ徹底入門]] [[/日本語]]に。 [[/イーグル村通信]] についてもひとこと。 [[/ミニコン]] はいろんな場面に顔をだす。 あとは [[/PTT]] [[/プログラミング・シンポジウム]]での話とかもある。 個人的な話は省略。 1986年からの4年間は 総合情報処理センター長をされていた。 スーパーコンピュータ導入を始めとして激動の期間だった。 センター長お疲れさまでした。[[/最後に]] = 木村泉先生 = 2019年 没 角田さんからのメールを受け取った。 白濱律雄さん、髙木茂行さん、... なくなった人たちもいる。 まずはお礼を。 木村泉先生の思い出を書くことは自分の過去を振り返ることでもあった。 きっかけを戴いた角田さんにお礼を申しあげたい。 書かないといけないと思いながらも、資料を探すのに時間をとられたり、 懐かしい資料を見つけて、そちらに読みふけったりして進まない。 ひとつの資料から別の資料へと(木村先生とは関係ない)古い話に気を取られる。 書かない方がいいこともあるが、整理してみよう。 記憶というのは不思議(曖昧)なもので、突如関係なさそうな話を思い出したりする。 できるだけ時の順に並べたいが、まだできていない。 == 外部リンク == [[PC-1]] PC-1完成後50周年 の出版から。 = 項目別 = 著書(翻訳を含む)を多数頂いた。これらについては私が書けるものはない。 . ワインバーグ本 センターシステムの将来について考えるときに役にたった。 . カーニハン: プログラム書法 ソフトウェア作法 (RATFOR) . ワープロ徹底入門ほか(岩波) goto 論争 (Dijkstra) 「構造的プログラミングの経験」 夏のシンポジウム (筑波大学) あたりが最初の出会いか。 辻さんが東工大に就職して、遊びに行った方が先か。 PTTの前身のCAPだったか。 1977年1月 前野、東工大着任 M180 TSSの時代へ TSS からUnixとネットワークの時代へ。( == 教育 == 「10年先でも陳腐化しない教育を」 Fortranではだめ。 会話型システムの将来。メインフレームではだめ。 などを想像するときに、ワインバーグさんの本が示唆に富む。 「計算機科学の発想」 これを抜かしてはまずい。-- ToshinoriMaeno <> ハードウェアの目覚ましい発達の時期。 CPU, Memory, HDD, network speed, ... Groshの法則とか、Mooreの法則とか、Bill Joyの法則とか。 [[コンピュータの歴史]] を抜きには語れない。 == 第二種の計算機利用 == 総合情報処理センター長になられたときに、 計算させることにしか目が向いていない利用者を説得するために書かれた記事がある。 メインフレームはプログラミングの助けにはならない。 TSSが使えるだけではプログラムの編集にさえ不十分だ。 UNIXのgrepのようなものさえ用意されていない。(sedもなかった。) 今後の計算機にはUNIXのような機能も必要だということだ。 == ネットワーク == 東工大ネットワークの基礎づくり (Unixの普及)にも尽力された。 飯島、池辺、木村、と三代のセンター長のもとで、ネットワーク(ハードウェア)が培われていった。 木村先生のときはその仕上げとも言える時期だ。 利用者がいてのネットワークである、と言っておられた。 ただ、管理コストの負担などで、若手との意見の違いも多少はあった。 (メール管理など) == スーパーコンピュータ == 日米貿易摩擦の影響で、スーバーコンの予算が付くことになった。(中曽根首相、日立スパイ事件) 1987年 ETA10+Sun WS群を入れた。 ネットワーク利用を推進する機会でもあった。 = 時系列 = == 情報科学科計算機の更新 == VAX-11 780 情報科学科システムリプレース話 (米沢さん、Facom 45S からの更新?) かな漢字変換(マクロ方式), 日本語入力, 親指シフトKB, SKY, Dvorak, 粕川君, ワープロ, ... 髙木君 . ワープロ徹底入門 1988年3月 . ワープロ徹底操縦法 1991年3月 ワインバーグ本、イーグル村通信 カーニハン本 (プログラム書法) ソフトウェア作法 == 東工大以前 == EDSAC プログラム鑑賞 誰も言っていないが、和田先生、島内先生らの作られたものが消えていく。 裸の計算機に直接触れられるという経験は貴重だったが、 === ミニコン === 大型機を共用するだけでは行き詰まる。(失敗したTSS) 文書作成などはPCやWSの方がいい。(ひとり一台、...) HITAC-10シミュレータ (F45S, search 命令) を動かしておられた。(辻、飯島) 島内: 「システムプログラムの実際」 を鑑賞するためだろう。 [[ToshinoriMaeno/Memo/H10]] ミニコンの時代、紙テープ入力の時代、ASR-33 (TTY) テープ編集も不自由だったので、ミニエディタ(和田先生)をいただいた。(bit ミニコンに詳しい) Mac/7s エミュレータから plan7の移植、12" Memorex FDDをつないだ話。 bit 連載 (N.H.K. ばかばなし) NEAC3200 関連 (マニュアルあり) 1981年5月に「計算機科学の発想」 (紀 華彦著)として、本になっている。 この本でも、お三方の本名は明かされていない。(知るひとぞ知る。だが今となってはどうか。) 夏シンポ 構造的プログラミング (筑波大学) == 東工大へ 1977年1月 == ミニコンから巨大システムのおもりへ。 バッチ処理からTSSへ (VOS2/3) H8700 (512MB?) と言っても、 主記憶3MB, HDD 200MBX6 台の時代です。(仮想メモリ、swappingとの戦い) オープンカードリーダ、プリンタ、MT などのオープン利用 VOS2からVOS3への切替。 Pascalコンパイラーを疋田、石畑氏からいただいて、整備した。 まずはエディタを動かした。 行単位のやりとりが中心のシステムだった。(入出力のたびに ディスクスワップが発生する。) こういうTSSではだめだと思った。(ミニコンでの文字単位のやりとりをしたい。vi/Emacs風のエディタがいい。) 日本語入力にも不便。 200Hへのシステム更新で、限界を知る。ファイル領域の無駄 == PC/WSの時代へ == Groshの法則の成立範囲外の機種が出現した。 Bill Joyの法則 (ムーアの法則は既知として) Sony Newsには先がないこと。(日本はメモリはまだ強かったが、それだけ) Sunへの着目とネットワーク (Sony News サーバー群+X端末) 半導体の発展 管理の手間からすれば、X端末という選択もあった。 メインフレームの管理よりはずっと手間がかかることを理解してもらうのは大変だった。 == 降ってきたスーパーコン 予算 == いらないとは言えない。適当なシステムがない。究極の選択 その後: Sunに替えて、Sunよりも将来性のあったMIPSを入れたが、HDD(F社)のトラブルでうまくいかなかった。